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おやすみ あの頃 あの場所 あの歌 05

 鴻鳥は誰とでも、それなりに親しくしているように見える。しかし親しくなれたと思っても、見えない壁のようにそれ以上は踏み込めない領域があるのを、周囲の友人はなんとなく感じていた。
 そんな鴻鳥から、四宮は彼がアルバイトとして入っている店に、
「…ピアノのライブがあるから、来てみないか?」
と誘われた。
 そこには以前にも誘われて何度か行った事がある。雑居ビル2階の音楽バー。落ち着いた雰囲気の良い店なのに、客が入っているのを四宮は見たことがない。
「…客がいないのに、よく営業を続けられるな…」
 初めて店に行った帰り道、四宮は鴻鳥の前でだけ正直な感想をもらすと、
「僕なんて客がいないのによくこの店つぶれませんね、ってしょっちゅう沖田さんに言っているよ〜」
 朗らかに笑いながら、かなり失礼な事を言ってのけた。
 ……いつでも穏やかな態度の鴻鳥だが、こう見えて案外と図太いのかもしれない、と四宮はひそかに友人の性格について思う。
 鴻鳥がここでバイトをしているのを知っているのは、おそらく四宮だけだろう。それを思うとき、胸の奥で感じるくすぐったさは…嬉しい、という気持ちなのだろうか。



 待ち合わせの時間に四宮は店に入る。鴻鳥はまだ来ていないようだ。せっかくのピアノライブだというのに、店には今日も客がいない。マスターの沖田に軽く挨拶した後、四宮はカウンターの席に座って鴻鳥を待った。
「…謎の新鋭のジャズピアニスト、ベイビーのプライベートライブへようこそ」
 背後から鴻鳥の声。振り向くと鴻鳥が立っていた…鴻鳥のはず、だった。
 黒いスーツに身を包み、肩に届く淡い色彩の髪。赤いルージュで彩られた唇が、微笑を形作る…声も顔立ちも確かに鴻鳥のはずなのに、まとった雰囲気は四宮の知らない男だった。
「…自分で『謎の』、とか言うな。だいたい謎なのは、そんな髪型のカツラを選んだサクラのセンスだろーが」
 精一杯の強がりで四宮が茶化すと、
「ええ〜四宮、ひどいな〜」
 ……ジャズピアニスト・ベイビーとしての謎めいた雰囲気は消え、四宮がよく知っている、いつもの鴻鳥が困り顔で笑う。
「ま、奴の演奏を聞いてやってくれよ」
 カウンターごしに沖田が笑う。
「奴(やっこ)さん、何日も前から選曲に悩んでいたからなー」
「…沖田さん、それは言わないで…」
 先ほどまでの謎めいた雰囲気はどこへやら、鴻鳥はなんとも情けない顔になった。
「…なんであんな変なカツラなんかかぶるんだか…」
 ピアノへと移動する鴻鳥には聞こえないように四宮がつぶやくと
「俺がアドバイスしたんだがね」
 沖田が答える。
「真面目な医学生がジャズピアニストとしてライブをやる、なんて言ったらどこで問題になるかわからないしな。正体不明なピアニスト、だったらいくらでもごまかせる」
 鴻鳥が奨学金で大学に通っているのは四宮も知っている。アルバイトとして芸能活動をしていると知られたら、どこで何を言われるかわかったものではない。それを考えた上での沖田のアドバイスなのだろう。

 鴻鳥がピアノの前に座る。一瞬の静寂。そして軽やかなピアノの音色が、四宮と沖田だけが聴衆の店内に広がっていく。
 時折鴻鳥の指がリズムを取るのは知っていたが、実際に鴻鳥の演奏を聞くのはこれが初めてだった。
 軽快なリズム。以前鴻鳥と一緒にいるときに何かのBGMとして流れたのを、鴻鳥がジャズで有名な曲だと説明してくれた。女性が歌っていた歌詞を、鴻鳥のピアノの音色を聞きながら四宮は思い出す。失恋した女性が、相手に自分のすべてを奪って欲しいと懇願する歌だったはずだ。

 All of me - why not take all of me ?
 私のすべてを,どうして私のすべてを奪ってくれないの?

 ……まるでオメガの曲だ、と四宮はピアノの旋律を聞きながら思う。
 発情期で自分を失い、アルファと番を結ぶのを待ちわびるオメガの曲。
(…発情期で自分を失っている状態で、自分のことを誰かに決められるのはまっぴらだ…)
 鴻鳥は四宮の事をベータだと思っているだろう。四宮は自分がオメガである事や、父親がアルファである事をまだ鴻鳥に打ち明けていない。
 鴻鳥なら、オメガだからと相手を蔑む事は決してないだろう。それでも鴻鳥がアルファで自分がオメガである限り、オメガがアルファと結ぶ番(つがい)が頭をよぎる。

アルファに身体を開き、情欲のなかでうなじを咬まれる。そのアルファの所有物になったという、消せない烙印。

 もしも鴻鳥がアルファでなくベータだったら、番を結ぶ事について、こんなに悩まなかっただろうか。



 演奏終了後。
「…サクラ…おまえはそうやって、ベイビーとしてピアノを弾いているのか?」
「まだ無名だから、お客さんあんまり入らないけどねー」
 四宮も趣味でギターを弾くが、鴻鳥のピアノは趣味の域を明らかに越えていた。
 鴻鳥の選曲した曲の歌詞は四宮にとって楽しいものではなかったが、鴻鳥の演奏には文句を付けようがなかった。
「…それでもいつか、さ…たくさんの人に、僕の…ベイビーのピアノを聞いて欲しいんだ…」
「…産科医になるのは…?」
 出会ったとき、産科医になるために医大に入学したのだと言っていた。
 鴻鳥にピアニストを目指されたら…四宮は同じ道にはきっと進めない。
「僕はさ、四宮。産科医にもピアニストにもなるつもりなんだ」
 鴻鳥ははっきりと言い切った。その目標を、無謀な夢だと誰でも笑うだろう。しかし四宮は、
「…おまえなら、なれるよ」
 鴻鳥の言葉を…夢を、四宮は否定したくなかった。
 アルファとしての才能もあるだろう。しかしそれ以上に、鴻鳥が産科医を目指している事に真剣に向き合っているのを四宮は知っていた。
「…ケイコママ以外に、この事を打ち明けた事はなかったな」
 四宮の言葉に、鴻鳥は照れくさそうに言う。

 ケイコママ。

 以前鴻鳥から聞いた、児童養護施設で育った鴻鳥の育ての親。
 鴻鳥の生みの親は彼を妊娠していた時期に子宮頸がんが見つかり、子供を産むのを優先してがんの治療を遅らせたために亡くなったという。
 父親はその時にはいなかったらしい。母親に身寄りがなかったため、鴻鳥は施設で育ち、そして自分の力だけで医大に入学した。

 鴻鳥がアルファなら、母親はオメガだ。

 鴻鳥の父親もアルファで、鴻鳥の母親と番(つがい)を結んだうえで、鴻鳥が産まれたのだろうか? 今となってはそれを確かめる術はない。
 鴻鳥自身は、アルファとしてオメガと番を結びたいと望むだろうか?
 それはたやすく確かめられる。
 しかし四宮は、それを確かめる気になれなかった。


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2018.8.1 UP。

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