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偽善者

 産声もあげずに生まれた子供。
 目を覚ます事も動く事もなく、ただ横たわるだけの子供。
「つぼみちゃん、って呼んでいるの。…呼びかける時に、名前がないとかわいそうだから」
 ベテランの看護師長が、動かぬ新生児が入った保育器に視線を落としながら四宮に言う。
 いつかつぼみが花開くように、この目が開くように。
 …そんな事は決してありえないと、医師として痛いほど理解しているが。
「…いい名前…ですね…」
 笑いかける師長に同意を示そうと、四宮も笑おうとした。しかしさまざまな感情を押し殺してこわばったままの顔は、笑いの表情を作る事が出来なかった。
 産声とともに生まれてくるはずの命だった。
 両親からの祝福を受けて生まれてくるはずの命だった。
 母親からも父親からも祝福される事なく、目覚めぬままの誕生をこの子に迎えさせたのは…自分だ。
 四宮は、そう思っている。



「四宮」
 産科に戻った四宮に、鴻鳥は声をかける。勤務時間が終わったからだろうか、白衣ではなく私服に着替えている。
「お前、今日はオンコールじゃないだろ? 一緒にメシでもどうだ?」
「……」
 鴻鳥は穏やかに笑う。いつもと変わらぬ、向き合う者を安心させる笑顔で。
 …変わってしまったのは、自分だ。
 早剥(そうはく)により手術中に死亡した母親。生まれた子供は重度の脳性麻痺で、植物状態から回復する見込みは…ない。子供が一生目が覚める事がないと知ると、父親とは連絡が取れなくなった。
 鴻鳥が自分を気にしているのは、四宮にもわかっている。それでも。
「四宮?」
 返事のない四宮に、鴻鳥はふたたび名前を呼ぶ。
「…勤務時間が終わったので私は帰りますから、鴻鳥先生」
 会話をする意志を見せぬよう、それだけ言うと四宮は鴻鳥に背を向けた。
 今の自分は、鴻鳥と向き合えない。今の自分には鴻鳥と向き合う資格は…ない。
「四宮!」
 鴻鳥が今度はいくぶん強い口調で四宮に呼びかける。しかし続いたのは、少々意外な言葉だった。 「給料日前で苦しい。同期のよしみで奢ってくれ、四宮」
「……へ?」
 結局、給料日前で苦しいのは自分も一緒だからと、病院近くの手頃な定食屋で二人で向き合って食事をする事にした。



店を出た帰り道、何を話すでもなく二人並んで無言で歩いた。時間のせいか、通りを行く人の姿は無い。先ほどは一人で帰ろうとしたのに、今は鴻鳥と別れて帰宅の道を一人歩く気になれなかった。
「…サクラ」
 つぶやくように、鴻鳥の名前を呼んだ。隣を歩く鴻鳥は足を止めて四宮を見る。
「…俺は、患者を不幸にしただけなのか?」
 手術中に死亡した患者。妻を亡くした男。誰も見舞いに訪れない子供。
 嫁さん返してくれよ、とつかみかかりながら叫んだ男の声が、今でも四宮の耳の奥に残っている。
「…違うよ、四宮。絶対に違う」
 鴻鳥の声は、本心から四宮を気遣っていた。自分には、そんな資格はないのに。
「…お前なら、そう言うと思った」
 それでも自分は知っている。あの患者にもっと強く…たとえ憎まれる事になろうともタバコをやめさせていたら、今とは違った結果になったであろう事を。
「…偽善者だよ、お前は」
 つぼみ、という名前に看護師長がこめた願いを、ありえない事と知りつつも肯定した自分もまた同じく。
「…そうだな」
 鴻鳥は四宮の言葉を静かに…腹立たしいほど穏やかに肯定する。鴻鳥のその言葉を聞いた四宮の中で、いままで押し殺してきたものがはじけた。
「…俺…は…!」
 四宮は鴻鳥につかみかかる。妻を亡くしたあの男のように。
 いい加減にしろ、と鴻鳥は言っても良かった。甘えるな、と一喝しても良かった。
 だがあの時の四宮と違い、鴻鳥は掴みかかる四宮の背中にそっと手を回した。
 自分を気遣う鴻鳥を偽善者と嘲るなら、自分は一体何だ。
 やり場のない悔しさや後悔、憤りを鴻鳥にぶつけている自分は。
 それらをただ黙って受け止めてくれる鴻鳥に縋る自分は、一体、何だ。
「…俺が…弱かったから…あの時…タバコを…無理にでも…嫌われてでも…止めさせていたら…!」
 四宮の声に、いつしか嗚咽が混じる。鴻鳥は何も言わず、うつむく四宮をただ抱きしめた。
「…サクラ…お前…は…偽善者だよ…!」
 それでも四宮は、背中に回された鴻鳥の手を振り解く事が出来なかった。



2015.4.24。

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