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産科医は誤解と厄介の上にたつ苦界

『…ずいぶんと忙しそうですね、鴻鳥先生』
 スマートフォンから聞こえる四宮の「鴻鳥先生」呼びかけを聞いた瞬間にマズい、と思った。
「いや、あの、四宮! この埋め合わせは絶対にするから!」
『わざわざ私のために時間をさかなくても結構ですから、鴻鳥先生』
 病院でこのような丁寧な言葉遣いをされるのも正直言ってキツいが、プライベートな時間に言われると更にこたえる。
「ハルキ、ちょっと待っ…」
 最後まで言い終わらないうちに、通話は切られた。待ち受けに切り替わったスマートフォンの画面を見ながら、鴻鳥はその場に立ちすくむ。周囲のあわただしいリハーサルの喧噪も、今の彼の耳には入らなかった。
「ヘイ、ベイビー、どうかしたのか?」
 呆然と立つ鴻鳥を気にして、ゲストのベーシストが声をかけてきた。その気遣いはありがたいが、プライベートの悩みを言っても仕方がないだろう。
「…たいしたことじゃないんだ。じゃ、次の曲の打ち合わせに入ろうか」
 本当は彼にとっては「たいした事」なのだが、なんとか笑顔を作り鴻鳥はピアノに向かった。



「あの、しのみ…」
「何か用ですか、鴻鳥先生」
 翌日ナースステーションで普段通りに四宮に声をかけてみたが、四宮から鴻鳥への呼びかけは「鴻鳥先生」のままだった。この様子だとまだ機嫌は直っていないだろう。
「…○○さんの帝王切開(カイザー)予定の件、船越先生に伝えておくから」
「……お願いします、鴻鳥先生」
 それだけ言うと、拒絶の意志を示すかのように四宮は鴻鳥に背を向けた。どうすればいいのかわからずに鴻鳥は途方に暮れた。



「これで今日の外来は終わりかー」
 午前の診察も終わり、小松が大きく身体を伸ばした。今日は要注意の患者はいなかったので、そんな気楽な言葉が出たのだろう。
「お昼にしようか、鴻鳥先生…って、大丈夫? なんか元気ないじゃん?」
 力なく机に伏せる鴻鳥を見て心配した小松が声をかける。診察中は気力で診察をこなした鴻鳥だが、最後の患者が診察室を出た瞬間に気が抜けた。要注意の患者がいなくてよかったと、この時ばかりは思った。
「具合でも悪いの? 他の科の先生に診てもらう?」
「…いえ…大丈夫です…」
「午後の診察、大丈夫なの?」
「…患者に迷惑をかけるわけにはいきませんから…」
 意気込みは立派だが、声に力がない。小松は鴻鳥がここまで気落ちする原因を考えてみた。
「…ベイビーのピアノで、何か悪く言われたの?」
 その場にいるのは鴻鳥と小松二人だけなので、鴻鳥の副業を話題にしても大丈夫と判断しての言葉だったが、鴻鳥の反応は小松も予想もしていないものだった。
「…ピアノについて何か言われたら、ピアノで黙らせます」
 先程までの気力の尽きた様子とは------それどころか、普段の謙虚な産科医・鴻鳥サクラとは思えない力強い言葉だった。自信に溢れたジャズピアニスト・ベイビーがそこにいた。
「…ピアノじゃない事はわかったよ。じゃ、どうしたのさ?」
「…四宮と…喧嘩しました…」
 鴻鳥と四宮の関係を知る小松だから、鴻鳥も彼女に打ち明けたのだろう。それにしても先程の自信に溢れた態度はどこに行った、と突っ込みたくなるくらいの落ち込みぶりだった。
 ゲストを招いたライブを控えていて、打ち合わせや練習で四宮と病院の外で会う時間が取れなくなったのだと、喧嘩の理由を小松に話した。
「ゲストがいるライブならベイビーだけのライブじゃないし、そのライブを楽しみにしている人はいっぱいいるんでしょ? ある程度は仕方ないんじゃない?」
「…四宮と一緒に食事するという約束を…守れませんでしたから…」
 ただでさえオンコールなどでプライベートが予定通りにはいかない産科医だ。だからこそ鴻鳥も四宮が怒るのも理解できるのだろう。
「ライブには四宮先生も招待しているんでしょ?」
「…ええ、まあ…」
「私のアドバイスじゃ気休めにしかならないと思うけど…いいライブして四宮先生にも納得してもらうしかないんじゃない?」
「…四宮が…来てくれるかどうか…」
 大丈夫だよ、と小松が励ましているところに船越が来た。帝王切開予定の麻酔に関しての連絡を伝えに来たのだろう。
「鴻鳥先生、元気ありませんね」
 元気のない鴻鳥を、珍しく船越が気遣う。
「鴻鳥先生、ちょっと恋人と行き違いがあってねー」
「…それは大変ですね。やっぱり産科医は…」
「産科医がどうしたのさ?」
「産科医は、誤解と厄介の上に立つ苦界ですね!」
「……」
 自信満々に船越は言うが、当の産科医・鴻鳥からの返事はない。鴻鳥にしてみれば傷口に塩を塗り込まれたようなものだろう。
「…船越先生…鴻鳥先生、いま何か言う気力もないみたい…」
 小松がフォローした。判ったのか判っていないのか不明だが、
「それは残念ですねー」
とだけ返事をして、船越は去っていった。



 陽も沈み、街の色彩は夜の色へと移り変わっていく。
 野外ライブ会場も夜の色に染まりつつあったが、ステージの上ではグランドピアノがライトに照らされて演奏者を待っていた。開演を待つ客席は、これからのライブへの期待にざわめいている。四宮もその熱気を帯びたざわめきの中にいた。
 鴻鳥は四宮のために良い席を取ってくれたので、指定された席はステージにかなり近い。万が一鴻鳥に気付かれないようにと四宮は念のためサングラスをかけ、普段とは違う服装でライブ会場に来ていた。これなら鴻鳥にも自分だと気付かれないはずだと四宮は思う。
 会場のざわめきが熱を帯びた拍手に変わる。四宮はその熱気を感じながら、ステージに視線を向けた。
 ライトに照らされた肩に届く淡い色の髪。黒のジャケットにスラックスというありふれた服装なのに、視線を集めずにはいられないのは何故なのか。ゲストのベーシストとともに、観客の拍手に手を挙げて応える。
 誰もそのプロフィールを知らない、謎のピアニスト。
 そのピアノの旋律は時に繊細で、時に情熱的だと言われている。気まぐれで、演奏を始めて十分で席を立ってステージを去ると思えば、二時間もライブをする時もある。
 --------だが四宮は、ジャズピアニストのベイビーが、産科医の鴻鳥サクラである事を知っている---------。
 ベイビーがピアノの前に座ると、会場はこれからの期待をはらんだ静寂に支配された。その一瞬の緊張感の後に、ベイビーの演奏が始まった。
 ベイビーの指から生み出されるピアノの音が、ベースの低い音色と絡み合う。
 鴻鳥と知り合う前は、四宮は音楽を理解できなかった。理解できなくても、何も感じなかった。
 鴻鳥と知り合ってからは、鴻鳥が楽しそうにピアノを弾く時間を彼と共有できるだけで、それだけで良かった。
 でも、この瞬間は。
 ピアノと弦の旋律が、会場を駆け抜ける。観客は拍手で、振り上げる拳で、その音に応じる。その演奏は、その音は確かにこの場にいる観客や、四宮の中の何かに触れては通り過ぎていく。

 二人で会う時、すこし照れくさそうに「ハルキ」と四宮の名前を呼びかけるサクラ。
 病院で妊婦の不安を和らげようと笑いかける、産科医の鴻鳥サクラ。
 この場にいる観客を魅了する旋律を生み出す、ジャズピアニストのベイビー。

(…俺が…サクラを…ベイビーを…鴻鳥サクラをすべて独占しようとするのは…間違い…なのだろうか?)

 観客の熱気は最高潮に達しようとしていた。四宮も一人の観客として、その陶酔に身を任せられたら、どれだけ良かっただろう。



2015.12.18 UP。

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