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おやすみ あの頃 あの場所 あの歌 01

 熱を帯びた艶めいた吐息が、暗闇の中に溶けていく……アルファの理性をはぎ取り、欲望をむき出しにさせるオメガの吐息が。
 身体の奥底からの熱で、自分の理性も狂いそうになる。彼はベッドの上で、自分の身体を抱きしめる。そうして身体の中で吹き荒れる嵐を押さえ込むかのように。
 これまで身体を苛(さいな)むこの熱は、薬で抑えてきた。
 でも、今夜だけは。
「…サ…クラ…」
 四宮は祈るかのように、その名を呟いた。



 自分が何者であるかを告げられたのは、中学生の時だった。
「…オメ…ガ…?」
 信じられない思いで、四宮はその言葉を聞いた。
 父親の晃志郎を交えての学校での面談。四宮は問題のある生徒ではないのに何故そのような場を設けられるのか不思議だったが、オメガの告知という重大事項であれば当然ともいえた。同席するのが父親というのは、医師という父親の専門的立場からの助言が必要だから、というのも関係しているのだろう。
 教師と同席しているのは、おそらくソーシャルワーカーとしてのオメガだろう。オメガならば、同種やアルファを簡単に見分けられる…というより、オメガやアルファが発するごく微量の匂いを嗅ぎ分けられる。

 現在生きている人類には、男女の性の他に、アルファ・ベータ、そしてオメガという3つの性が確認されている。

 ベータ。
 現世人類の大多数を占める。
 アルファ。
 現世人類と身体上は変わらないが、様々な面で人類以上の能力がある。人類に占める割合としては多くはない。
 オメガ。
 ごくまれにしか産まれず、およそ3ヶ月周期で発情期が現れ、その期間は他の性を…特にアルファをフェロモンで性的に惹きつけ、男女ともに妊娠・出産が可能。

 そして、オメガだけがアルファを産み出す事ができた。すべてのアルファはオメガから産まれ、オメガ以外から産まれたアルファはこれまで存在しない。それに対して、オメガが産まれる法則というのはいまだ解明されていなかった。

 四宮ハルキは、自分がそのオメガだと告げられた。

 四宮の父親はアルファだが、母親はベータだ。そのため四宮が父親と同じアルファというのはあり得ない。アルファとして生を受ける事はなくても、それでも自分は母親と同じベータなのだと思っていた。

 以前、晃志郎に聞いた事がある。
 なぜアルファなのにオメガとではなく、ベータの母親と結婚したのか、と。

 アルファとして産まれた者は、自分の血を受け継ぐ子供もアルファである事を望み、結婚相手にはオメガを娶る…それが当たり前とされていたが、晃志郎が伴侶として選んだ相手はオメガではなく、ベータだった。
 四宮の問いに、晃志郎は笑って答えた。
「そりゃ、母さんと出会ったからな」
 すこし照れくさそうに、それでもためらうことなく答えた晃志郎を、四宮は誇らしく思った。



 自室の机の上には処方された薬と、手のひらに乗るくらいの、半透明のやや太めの筒状の機械が置いてあった。普通の生活を望むオメガにとって、決して欠かせないオメガフェロモン検出器だ。
 この小さな機械に息を吹き込めば、ごく微量なオメガフェロモンでも検出し、発情期の周期を教えてくれる。それに合わせて抑制剤を飲めば発情を抑えられ、普通の生活ができる。
 日常に服用する薬と一緒に、緊急用の薬のケースも用意されていた。
 身につけられるようにと細い鎖に繋がれた、細く短い銀色の円筒形。鎖のついていない方を自身に向けて強く押せば、即効性の薬が注射される仕組みだ。
これと同じ物を、アルファである父親が持っているののを見た事がある。中身は対オメガフェロモン薬…父親のようなアルファが、オメガのフェロモンで理性を失わないための薬だ。
 そして自分の目の前にある薬のケースに入っているのは、発情を一時的に抑える薬と、そして…緊急避妊薬。
 四宮は自分がこの薬をどんな場合に使うかを想像してみた……どう考えても、あまり喜ばしい状況で使う事はなさそうだ。
(…こんな…もの…!)
 四宮は机の上の測定器と薬を握りしめた。それをそのまま窓から投げ捨てたかった。それができなかったのは、どんなに忌まわしいと思っても、それが普通の生活を送るためには必要なものであるのを頭の片隅では理解していたからだ。
 自分がオメガと告げられた怒りや理不尽、やるせなさ…そのすべての感情で、身体の中の血が逆流するような感覚がした。しばらく肩で息をしていたが、徐々に冷静さを取り戻せた…はずだった。
 しかし身体の熱さも呼吸の荒さも、いつまでたっても収まらなかった。これまで感じた事のない身体の熱さに、今日宣告された事が頭をよぎる。

(…オメガの…発情期…?)

 最近、体のだるさを感じていた。発情期の前にはそのようになるのだと説明を受けたが実感はわかなかったし、それに薬に頼らなくても自制できると思っていた。
(…薬…なんか…使わなくても…!)
 身体の奥底がしびれ、重い。それでも四宮は抑制剤を使うまいとした。やがて身体の力が抜けて立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。



 晃志郎は息子の部屋のドアの前に立ったまま、ノックして入るべきかどうかしばらく考えていた。
 自分がオメガと告げられるのは、最初は誰でも混乱する。ここで周囲がきちんとサポートしないと、発情期に振り回され、社会に適応できないまま生きていかなければならなくなる。
 ハルキならオメガであっても適応して生きていけると晃志郎は信じたし、そのためには自分や妻も全力を尽くすつもりだった。
「ハルキ…入るぞ」
 意を決して声をかけたものの、中から返事はない。一緒に家に戻ってきてから息子は出かけてはいないはずだ。眠ってしまったのだろうかと思い、声をかけた上でドアを開けた。
 ドアを開けて見たのは、床にうずくまり、荒い呼吸をしているハルキと、そして……むせかえるような、強い甘い匂い…発情期のオメガが発するフェロモンだ。晃志郎は息子の身体に何が起こったのかを理解した。
「ハルキ!」
 晃志郎は自分の胸元の薬入れを引きちぎり、自らに注射する。アルファである自分が発情期のオメガに不用意に近づいたら、オメガの発するフェロモンに、理性を飲まれる。
 机の上に置かれた緊急抑制剤を確認すると、うずくまるハルキの腕に注射した。
「…父…さん…俺…」
 浅い息のなか、潤んだ目で四宮が晃志郎を見上げる。明らかに発情期だ。自分の身に何が起こったのか、ハルキは理解できただろうか。
「…薬はすぐに効くから…落ち着いたら降りて行きなさい…母さんが心配している…」
 精一杯のいたわりがこもった声を四宮にかけ、晃志郎は部屋を出ていく。
 飲まなければいけない抑制剤を飲まずにいたことを責めもせず。
 なのに、自分は。

(…父さんなら…アルファなら…この熱を…楽にしてくれると…思った…)

 発情期になったオメガが抑制剤を使わずに身体の熱を静めるには、アルファと身体を重ねる事。オメガは本能でそれを知っている。

(…俺、は…父さんと…)v
 まだ短いとはいえ、これまで生きてきてそれなりに積み上げてきた理性も、人としての尊厳すらも、発情期の衝動の前にはあっけなく崩れ去る。

(…これが…オメガか…)

 おそらくこれまで幾多のオメガが、その心に刻みつけられたであろう刻印をかみしめる。
 視界がにじむ。うつむいた目から、涙がこぼれた。



 四宮は翌日からは何事もなかったかのように過ごした。晃志郎とは以前より多少距離をおいたものの、それでも表面上は何事もなかったかのように振る舞った。晃志郎もまた日常に戻ろうとする四宮を気遣い、特に何も言わなかった。
 測定器でオメガフェロモンが出ているかを毎日確認し、薬は忘れずに飲む。忌まわしいと思いつつも、緊急抑制剤と緊急避妊薬も携帯する……人としての自分を、つなぎ止めるために。
 自分がオメガである事を決して忘れず、それでも服用している抑制剤のおかげでオメガの発情期を思い出さずに日々を過ごし、幼なじみとともに進路を決める頃。



「ハルやんはやっぱり、東京の医大に行くのか〜?」
 教室で帰り支度をしていた四宮に、幼なじみのミツルがのんびりと声をかけてきた。
「一度向こうで勉強してみたいしな」
 父親と離れたかった、というのもあるが、それは幼なじみには言わなくてもいいだろう。
 自分も家を出たかったが結局家から通える専門学校にした、などとミツルの愚痴めいた話を聞いていたら、
「そーいや○組に佐々木っていたじゃん? 佐々木つぼみ」
 ミツルはのんびりと同級生の名前を挙げた。
 お互い話したことはないにしても、その名前だけは知っていた。
 自分と同じオメガの少女。
 オメガは…オメガだけが、アルファ・ベータ・オメガをかぎ分けられる。
 入学したばかりの頃、すれ違いざまに互いの匂いをかぎ取り、相手が自分と同じ存在であることを知った。知ってはいても、あえて関わりを持とうとはせずにこの時期を迎えた。
「あいつさー、オメガだったらしいよ?」
 ミツルの何気ない言葉に、四宮の胸がちくりと痛んだ。
「んだから、高校卒業したらどっかの家に嫁入りするんだって」
 オメガだけが、アルファを産み出す事が出来る。
 そのためアルファを得る手段として、オメガとの婚姻を望む者も多かった。佐々木もそんな家に望まれて行くのだろう。
「…ふーん…」
「ハルやんはお父さんが医者だからオメガの事とか聞いていて、そんなに珍しくもないし、興味ないかもしれないけどさー。俺、オメガに会った事なんかないもん。でも同じ学校にいたなんてびっくりだよなー」
 自分もオメガなんだけどな、と思うと、目の前の幼なじみに対して怒るよりも苦笑が漏れた。
「…でも、ミツルは同じ学校にいて何度かすれ違ったかもしれないのに、佐々木がオメガだって事、気付かなかったんだろ?」
「う〜ん、そう言われればそうなんだけど…」
 こうしてオメガと話しているのに気付かないじゃないか、とはさすがに口にしなかったが、この友人とのんびりとしたやりとりに胸の痛みも消えていく。その、ごく当たり前の日常を四宮はなにより大切にしたかった。


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2018.8.1 UP。

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おしらせ

  • 「おやすみ あの頃 あの場所 あの歌」をアップ。
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  • 更新に関しては更新履歴参照。

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