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月の咲く夜に-タカシ

 女の指が、彼の胸にある古い傷跡を軽くなぞった。
「…手術の跡なんて、別に珍しくもなんともないだろう?」
 ベッドに身体を横たえたまま、彼は女が傷をなぞるのにまかせた。彼が手術を受けたのはずいぶんと昔---彼がまだほんの子供の時だったから、傷はだいぶ薄くなっている。わずかにひきつれたような胸の傷から、手術の痕跡を想像するだけだ。
「この傷、あなたの身体を治すための手術じゃなかったんでしょう、タカシ?」
 女の手が、彼の傷跡に愛おしげに触れる。
「大けがをして、どうしても皮膚が必要な友人がいた。だからあげた。それだけだ」
「見返りもなしで?」
「子供の時の話だ。そのとき相手は、お礼なんてできる状態じゃなかったよ」
 優しい少年だった。頭の良い少年だった。育ちの良さからくる穏やかな性格通りの、可愛らしい少年だった。その少年が遭った、残酷すぎる事故。
 身体中がバラバラになったと聞いた。全身にひどい火傷を負ったと聞いた。何十時間にも及ぶ大手術に耐え、少年の生命が助かったのは奇跡だと聞いた。
「…私も同じような目にあったら、あなたは皮膚をくれる?」
 そう言って女はタカシの目をのぞき込んだ。そこにあったのは無邪気な好奇心と、それから…ささやかな嫉妬、だったのだろうか。
「男としては、自分の恋人がそんな目にあわない事を祈るだけだよ」
 タカシはそのまま女を抱きしめて、身体を重ねた。
 女のやわらかな肌。自分と同じ、浅黒い皮膚。
 …黒男の肌とは違う。彼の国に住む大勢の人間の皮膚とも違う。
 あの国は肌の異なる者、言葉が異なる者にとっては優しい国ではないと、子供ながらおぼろげに知っていた。それでも皮膚の提供がなければ黒男の生命が危ないと医師から説明され、見舞いに行った友人達がみな病院から去っていくのを見た時、自分のを使ってもいいと、皮膚の提供を申し出た。それで黒男の命が助かるのならば。
 あれからもう何年もの月日が流れた。もし彼に、新しく皮膚を提供してくれる誰か現れて、自分のあげた皮膚と取り替えたとしても、自分は彼を恨まないだろう。
 あの時は緊急事態で皮膚の提供者が見つからなかったが、今ならば、彼を愛する女から皮膚を貰う事も出来るかもしれない。金で移植用の皮膚を買う事も出来るかもしれない。生まれつきの色とは異なる肌を、いつまでもつけていたいと誰が思うだろうか。



 ブラックジャック。
 その医師の噂を聞いたのは、どんな経緯だったのかはもう覚えていない。
 日本人。どんな病気をも治す天才外科医。大金を請求する悪徳外科医。
 つねに黒衣に身を包み、黒髪に半分だけ白い髪と、そして---。
 顔の半分近くを、東洋人らしからぬ浅黒い皮膚で覆った顔。

(…クロちゃんだ…!)

 タカシから取った皮膚は黒男の顔に移植されたのだと、手術後に看護婦から聞いた。生まれつきの肌とは異なる色の皮膚を身体につけている人間など、そういるわけがない。

(…逢いたいよ、クロちゃん…!)
 胸の中で黒男の名前を呼んだ時、痛むはずのない胸の傷が疼いた。



2006.03.02 UP。

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