ホーム > Text > BLACK JACK > 四季 夏

四季 夏

 海にいるのは
 あれは 人魚ではないのです
 海にいるのは
 あれは 波ばかり

 青空の下、幾千、幾万もの光のかけらが、遠く水平線にまでちりばめられている。汀ではピノコが、引く波を追い、来る波に引いて遊んでいる。
「濡れるぞ、ピノコ」
「らいじょうぶ! ピノコはそんな…」
 突然来た大きな波に、ピノコは足をすくわれた。波が去った後、そこには全身ずぶぬれになったピノコが取り残された。
「だから言っただろう」
「れ…れもね、ちょっと暑かったかや、こえれちょうどいいのよさ」
「…それって、負け惜しみって言うんだぞ」
「ふんっら…こーんなあっつい日にもコートを着ていゆ先生には、とうていわかいっこないのよさ」
「今度は八つ当たりか」
「言ったわねー…」
 ブラックジャックの前に、突然津波が起きた。
「ピノコ…おまえなあ…」
「ね、涼しいれしょ?」
 津波を起こした当の本人は、彼の前で邪気のまったくない笑顔を見せている。
 仕方なく彼は、ずぶぬれとなったコートと靴を脱ぐために砂浜にあがった。ピノコはもう濡れてしまったのだからと、今度は海の中で波と遊んでいる。ピノコのそんな様子を見ているうちに、ふと彼は、彼と関わり、そして海へと消えていった者達を思い出した。
(…トリトン…ヨーコ…おまえ達は今どんな海で泳いでいるんだ…?)
 遠くから、あるいは近くから、寄せては返す波の音がする。その波音にまぎれて、彼を呼ぶ声がする。
「…オニイチャーン…!」
 遠くの波間に、大きなシャチと戯れる少女。身を翻して泳ぐその姿は、現実にはありえぬ人魚の姿。
(…トリトン…ヨーコ…!?)
 遠くで波のくだける音がする。

 海にいるのは
 あれは 人魚ではないのです
 海にいるのは
 あれは 波ばかり

 彼方には、ただ、波ばかり。
「…は…」
 いつしか彼は、力なく笑っていた。
(彼らは死んだんじゃないか…もう…ずっと昔に…)
「先生? 寒いの? ボーっとなんかちて」
 ピノコが彼の前に立っていた。また波をかぶったのであろう、髪から水がしたたり落ちている。
「…いや…なんでもないんだ…早く帰ろう…風邪をひくぞ…」
「うん。帰ったらね、何かあったかいのをつくゆのよさ」
 ピノコは家へと走り出した。ピノコの後ろ姿を見ながら彼も歩き出し---------もう一度だけ、振り向いて海を見た。
 あったのは、空と海と、無数の光のかけら。
(…それでもおまえ達は、おまえ達の望む海へ還って行ったのだと、私は信じるよ…)
 彼は海に背を向けた。もう振り向く事はしなかった。



2004.05.05 UP。

↓何か一言ありましたらどうぞ。

ページの先頭へ戻る