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消えた音色 残る音色

『おまえさん、確かチェロが弾けたよな?』
その言葉が、ブラックジャックから久し振りにかかってきた電話の最初の言葉だった。学生時代、何かの話題の時に辰巳がチェロを弾く、と言ったのを覚えていたのだろう。
「…まあ…弾ける事は弾けるけれど…」
『今度、聞かせてくれないか?』
 ブラックジャックからの、めったにない頼み事---しかも、めったにない種類の頼まれ事に、辰巳は電話口でしどろもどろになりながら答えた。
「いや、教わったのはかなり昔の事だし、それにあまり真面目に練習しなかったから、人に聞かせるレベルじゃないし、それにね…」
『…だめ…か?』
 上手ではないから、人におおっぴらに聞かせたくない。そんな考えも、電話の向こうから聞こえる彼のすこし寂しそうな声にどこかへ消えた。
「…初心者だし、本当に下手なんだよ。一生懸命にやって弾ける曲が『メリーさんの羊』レベルくらいの」
 それでも聞きたい、との返事なので、用意や練習時間に一ヶ月ほどを見て、来月の辰巳の休日にブラックジャックの家で演奏する、と約束した。



 久し振りにチェロケースをあけてみると、弦が何本か切れていた。
(譲ってもらった当時は大事にしていたんだけれどな…)
 苦笑しつつ、たまたま残っていた控えの弦と張り替えながら、辰巳がチェロを手に入れた経緯を懐かしく思い出した。
 学生時代、趣味でチェロを弾いていた友人が楽器を買い換えるとの事で、その当時チェロを弾きたかった辰巳が、友人から古いチェロを安い値段で譲ってもらった事を。
 教え子としては間違いなく出来の悪かった自分を、友人は辛抱強く教えてくれた事を。
 簡単な曲なら何曲か弾けるようにはなったが、医師として毎日を忙しく送るようになると、チェロケースを開ける事もなくなった事を。
 やや危なっかしい手つきで弦を張り替えてから、指で弦を一本はじいてみた。調弦を済ませていないため音がすこし狂っているものの、それでも深い音が響く。調弦を済ませれば、このチェロはまた歌ってくれるだろう。
(…1日か2日練習すれば、簡単な曲だったら弾けるようになる…かな?)



 約束の日。
 辰巳は車にチェロを載せ、ブラックジャックの家へと向かった。
「あ、辰巳先生!」
 扉の前でピノコが出迎えてくれた。
「先生が言っていたの。今日は辰巳先生がチェロを弾いてくえゆんでしょ?」
「下手だからがっかりしないでね、ピノコちゃん」
「ピノコね、この前初めて、演奏しているのをすぐ近くで聞いたの。あの大きさの楽器があれだけすごい音が出せるなんて、ピノコ初めて知ったのよさ!」
 ブラックジャックがどこかの演奏会に彼女を連れて行ったのだろうか。プロの演奏を聞いた後の彼女に自分の下手な演奏を聞かせるなんて、ちょっとした拷問だよなぁ、と辰巳は内心苦笑した。
「そえがチェロ? とても大きいのね」
 確かにまだ幼女(たとえ実際は18才であろうとも)の彼女から見たら、成人男性の自分の胸のあたりまであるチェロはとても大きく感じられるだろう。
「ピノコちゃんが見たのはヴァイオリンだけ? それに比べたら確かに大きいかもね」
「うん、ヴァイオリンらけ。モロゾフさんが一人で弾いていたのよさ」
 弦楽器奏者には疎い辰巳だが、彼の名前は聞いた事がある。確か先日の飛行機不時着事故で、ヴァイオリン奏者としての生命を断たれた、と。
「いけない、先生が待っていゆのに、おしゃべりしちゃった。いま先生呼んで来ゆかや!」
 彼女がいつモロゾフの演奏を聞いたのか、と訊ねる暇もなく、彼女は家の中へと入っていった。



「すまないな。せっかくの休日につきあわせて」
 居間で待っていたブラックジャックは、いつもと同じ黒のスーツを身に纏っていた。彼にしてみればいつもと同じ服装で辰巳を待っていただけだったろうが、辰巳にしてみれば本格的な演奏会の聴衆を前にしている気分だった。
「ほこりをかぶっていたチェロを引っ張り出すいい機会だったよ。それにしても僕がチェロを弾くなんて事、よく覚えていたね」
「まあ、意外に思ったから印象に残ったというか…」
「僕が楽器をやるような男には見えなかった、って事?」
「…そうかもな…」
 お互い苦笑しながら、辰巳は楽器を用意し、ブラックジャックとピノコは興味深げにその様を見つめていた。
 弓を弦にあて、本当に期待しないでくれよ、と前置きし、辰巳は弓を引いた。
 低く深い音色がゆっくりと流れていく。
 ある曲は重々しく、悲しげな旋律が幾度も繰り返された。
 ある曲は短く、切れの良い音色が生き生きと響いた。
 初心者向けの簡単な曲ばかりだったが、それでも大きなミスもなく曲を弾き終える事が出来た。
「…優しい音ね…」
 演奏を聴き終えたピノコが、短い感想を述べた。
「チェロの音は優しいから僕は好きだよ。勢いよく弾く事も出来るけれどね」
「れも、いま辰巳先生が弾いた曲は好きよ」
「いい曲はいっぱいあるから、機会があったら他の曲も聞いてね」
「今度、うちの先生のCDを聞かせてもらうのよさ。ちょっと待っててね。いまお茶を用意してくゆかや」
 ピノコがキッチンへと向かったあと、辰巳は先ほど感じた疑問をブラックジャックに聞いてみた。
「さっき、ピノコちゃんが、モロゾフ氏の生演奏を聞いた事がある、って言っていたけれど、それはいつの事なんだい? 確かモロゾフ氏は先日の飛行機不時着事故で演奏家としての生命を断たれた、って記事を読んだけれど…」
「…その事故の時だ。その事故に遭った飛行機に、俺とピノコは乗っていた」
「…………」
「…俺は、あの人を救えなかった…あの人の指が凍傷でだめになっていくのを…見ている事しか出来なかった」
「…………」
 なんらかの事情があり、彼なりの苦悩があったのだろう。それに対して意見を言っていいものかどうか、辰巳にはわからない。
「以前、おまえさんの頼みで、ピアニストの少年の腕を切らずにすませた事があったよな」
「ああ。彼はいま、若手演奏家の公演に出演しているって。たまに招待状が届くよ」
 生命の安全をとるべきなのか。本人の生き甲斐を優先するべきなのか。悩んだ末に辰巳はブラックジャック---天才無免許外科医に相談し、その結果、一人のピアニストを生かし、辰巳自身は病院を追われた。それでも辰巳は、ブラックジャックを頼った事を後悔していないと断言出来る。
「あの時は俺なりの理由で手術を引き受けた。でも…いまは、な…別の理由で、手術してよかったと考えているよ」
 失われた音色がある。
 この世界に留まる音色がある。
 二つを比べる事など出来ないが、それでも失われた音色を惜しみ、この世界に留まる音色を愛おしく思う---彼が何を思っているのかは辰巳にはわからないが、そう考えてもいいような気がした。
「二人ともお待たせ! ケーキもあゆのよさ!」
 明るい声が響く。ピノコが紅茶とケーキを盆に乗せて戻ってきた。
 今度、また別の曲を時間を見つけて練習してみよう。かつてこの世界に響き、失われた音色を思いながら。
 ピノコが興味深げにチェロの弦を弾くのを見ながら、辰巳はそう考えていた。



チェロにさわった事もない白石が、キャラクターがチェロを弾く物語を書く。
嘘つきもここまでくれば、すがすがしいかもしれません。
読者の方にチェロを弾ける方がいて、
「ここ間違っている」
とたとえ思っても、見て見ぬふりをしてくだされば幸いです。



2005.11.07 UP。

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